本質的に誰にも解決することのできない内的な孤独を開示するとき、
その行為が他者にとって、こちらからの関係性の放棄のように聞こえてしまうことを、
どう工夫して解決するかが、いつも難しい
もちろん、その孤独を抱えていること自体が、相手にとって耐え難い事実である場合、
工夫は嘘と等価になってしまう
これまではどちらかというと、そういう意味での嘘をつき続けながら人と関わっていたように思う
そしてそれによって、案外自分も楽しく過ごせるんだと感じたことも多々ある
でも、本当の意味で自分ときちんと向き合いたいと思ってくれる人に出会ったとき、
自分の目の奥にある、光の届かない場所に相手が気づいたとき、
その人が心底悲しみ、怒り、絶望を感じたとき、
俺はあまりにも間違ったことをしているのだと知ることが、何度もあった
それは、あなたが間違っているわけでは毛頭なく、かつ完全に俺の問題であって、
あなたに対する拒絶ではないとそこで伝えたとして、もうあまりにも遅すぎる
もっと早く、誠実に、自分の暗く汚いところを、伝えないといけない
街を徒然に歩き、道行く人々を眺めながら、
いろんな店で一息つき、近くにいる人々を見ながら、
この人たちが談笑しながら何気なく過ごしている日常というものに、
なんのしがらみもなく身を置くことはできないのだということに、
言葉にし得ない悲しみを感じることがよくある
俺だってそうなりたかったという気持ちがどうしようもなくなって、
使う必要のない金を費やして、自分を追い込んでしまうこともよくある
何の解決にもならないとわかっていながら、衝動的にする自傷行為が、
自分にとって浪費になっているのだと気づくまで、時間がかかった
そしてそれを、きちんと受け止め向き合おうと決心するのには、もっと多くの時間がかかった
俺は一人で生きているわけではなく、俺が傷つくことが他者に対する背信になることを、
わかった上で生きていくのが、責任を果たすということなのだろうと思う